CREATIVE COOKING COLUMN

農地の考え方

■使い捨てられる農地
農業生産は、一品目を栽培しその経済価格だけでは評価できない要素がある。
農業は地域の環境と共生し栽培していく作業である。
海外から輸入される農産物の価格は、全て一品目の単価だけが評価の対象になる。
その違いをどのように評価するか、経済単価に表れない費用が存在することを指摘していない。
海外の農産物と価格の面だけを捉えて農業生産全体を評価することは大変危険な要素が多い。
海外の生産物の価格には、地域環境の保全コストは無視されており、単年度の生産コストが仕入れ価格として計算されている。
栽培地の多くの生活者は大規模生産地から派生する環境汚染の影響をまともに受け苦しんでいるが、世界の穀物を牛耳っているコングロマリットは、現地の環境を無視している。
農地そのものが使い捨ての構造で利用されている。
栽培が可能な期間だけ利用し、栽培効率の低下と共に農地は廃棄されている。その期間は平均して20年~30年である。栽培効率の低下の多くは、土壌の塩化が始まり、塩化は生産性が低下し、採算性の低下した大地は放置され、その後砂漠化していく。

■自然環境との共生の上に成りたつ農業とは
農業生産の原則は、自然環境との共生する原則があり、持続的安定の思想の上に存在している。
農業生産の規模拡大が生産性を高いする議論は欺瞞が多く、農業の実態を知らない机上論の単なる遊びである。

米国がどれほど多くの農業地域を過去に砂漠化し耕地を放棄してきたか、その実態を我々は見逃している。米国の砂漠化した大地は、日本の耕地面積を遙かに越えている。
日本の農地も多くの面積を荒廃させた。価格の長期間の低迷が生産意欲を低下させた。
しかし世界の人口は増加の一途を辿る。
農業の厳しさや食糧危機はこれから本格的な次の1ページが開かれ、技術的解決は進んでおらず、今から始まる課題である。環境汚染、地球の温暖化は農業環境をを一層厳しくさせ、世界的に生産性を低下させる。

農産物は単年度の市場価格で全てを判断することが出来ない商品であり、持続的安定生産が可能な状態で価格を決定すべき商品である。
農産物は、全人類の食生活の持続的安定を基礎に市場のあり方を決める必要がある。必要以上の価格競争は、環境汚染を広げるだけである。

日本が昭和40年代、多くの軽工業で世界を席巻したとき、一時期には成功に見られていたが、その後大都市の多くの地域で環境汚染を拡大し蔓延させた。
その後の後始末はまだ終わっていない。
手を付けていない。
あまりにも膨大な資金が必要であり、手が着けられないのが実状である。
旧鉱業地域、大都市の近郊の汚染大地、瀬戸内から大阪港の汚染、大都市の河川の汚染等一つ一つ上げていくときりがない。国内だけではなく、東南アジアの材木の伐採跡地、海岸線の養殖地の跡地これらは20世紀の負債の一つであり、後世に残すべきではない負債であり、800兆とも云われる国債以外の隠れた負債である。
無秩序な価格競争の結果である。

日本の農産物は生産地では決して高くない。生産効率では世界一面積当たりの重量を栽培している。農地に負荷を掛けない生産量としては、ほぼ限界値を指している。
日本の農業生産は規模を拡大することは、面積に対して生産効率を低下させ、環境汚染を広げるだけである。規模の拡大では面積当たりの生産効率は上がらず、むしろ減少する。

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